写真の現在に関する思いつき
昨日は写真集「HOME」に絡んで、雑誌の取材を受けました。
ライター林誠治さん、カメラマン内野雅文さん、取材対象者は私。
本来は撮影機材に関する記事の取材だったのだけど、お二人とも、個人的にも「HOME」に関心を持っていただいてたので、仕事としての範疇を逸脱し、しばしば面白い話題に飛んでしまってそこがとても刺激的でした。
以下、たぶん雑誌にはぜんぜん関係ないであろうそこでの面白かった話題について、その後さらに一人で拡張して思ってみたこと。
個人用途での記念写真の変遷
・フィルムで撮影 :
撮った行為への満足感が主体。カメラをかまえ、ファインダーを覗き、シャッターを押す一連の動作を儀式的に行うことで達成感。実際に撮れているかどうかは完全にブラックボックス。
旅行から帰って一週間後とかにDPEに出す。春の入学式の写真と、秋の運動会の写真が同じフィルムに入ってたりもする。タイムカプセル的。(タイムカプセルを取り出したときに、中のものが無事かどうか不安)
写真は主に、DPEから仕上がった時点での確認時にピークを迎える。それ以降はあまり参照されない。アルバムに貼るとき、家に遊びに来た友人に見せるときに、再び日の目を見る。
さらに年月を経ると、意味が蓄積されてくる。少年時代の写真。自分が生まれる前の両親の写真など。絵画的。
・デジカメで撮影 :
撮影の儀式化は消え、その場でログ記録ボタンを押す行為に近い。すぐ映像を確認するが、それは一時的。ある程度の枚数を撮って場所を移動するとき、イベント終了時などに最初から連続再生して再度見る。この時点が写真の利用度としてのピーク。
DPEにプリントに出され、フィルムカメラと同じ経路を辿るケースも多いが、ちょっとした程度の会合や近場などで撮られたものはプリントされず、データは主にパソコンのHDDに格納される。そしてそのデータは何かの偶然のような形で(全く無関係の文書ファイルを探したり、新しいPCを購入してHDDをコピーするときなど)参照されることがある。
リアルタイムで画像を確認して撮影していることから、過去の画像を見たときに撮影時の状況とリンクしやすい。妙に生々しい。映像的。
・ケータイでの撮影
その場で画像確認する行為が主体。メモに使われることが多い。ログの記録というより、リアルタイムの静止画キャプチャーを撮る行為に近い。ただし、見た目とはかなり異なり、特有の画像となっている。(白とび、ハイコントラスト、色にじみ、低解像度、ピンボケ)
撮影直後の数秒後~数十秒後くらいが利用ピーク。感覚的には、少し過去の数十秒前のある瞬間のキャプチャー画像を見る、または人に見せる感覚。
ほとんどの場合、プリントされることはない。メール、ブログなど、最後までモニターでの表示のみで終わる。また、撮り捨て的な感覚で映像が消費される傾向にある。一応撮ったものを保存はするが、意図的にアーカイブしていく感覚はなく、どこかにデータが残っているはず、といった程度。記録的な感覚は薄い。
メモ、落書き、ライブビュー的?
こういった、個人用途の写真と作品として鑑賞する写真は全く世界が違う、と思いがちだが、実はさほど違わない。
産業全体の流れ ⇔ 人々の暮らしの変遷 ⇔ 写真に求める価値観、リアリティ
趣味的な嗜好は別にして、大局的には一個人の意思はあまり意味をなさない。写真の価値を変えるのは、写真家の意思ではなく、世界的な時間変化。むしろ科学技術と経済の問題?
- いまでも印象派絵画のコレクターはたくさんいるし、今後もたくさんいる。
- 現在のリアルな感覚は化石化したときに作品価値が発生する?
- 私は現在的写真を撮らされる?そこに私の意志は介在しない?
「デジタルカメラの登場」とは、これまでずっとCMYだった写真のRGB化とも言えるのか?
RGBになったことで、絵画と決別して一人立ちしてどっかいっちゃうのか?
もしそうだとすると、プリントして写真展、印刷して写真集というのはナンセンス?
で、ここんところ、「RGBだからってそんなのに意味なんか無いし別にどうということはないですよ」なのか、「あれ、なんか違ったものになっちゃってくるかも」なのか、考え中。
物質 = CMY
情報データ = RGB
つーだけなのか、そこが重要なのか。